『三人姉妹』
作:アントン・チェーホフ 演出:レオニード・アニシモフ
ストーリー
「それがわかったら、それがわかったら!」
女学校の教師の長女、中学校教師に嫁いだ次女、働く事を夢見る三女。
軍人だった父の死後、三人姉妹の夢はただモスクワに帰ること。
高邁な理想を抱く三人だが、現実の低俗さ、厳しさに傷つく。
家族との葛藤や、不倫、死を経て、三人が選ぶ未来は。
三人の心に希望はなくなったのか。
出演者
(キャストは、最終公演時のものです。)
アンドレイ
安部 健
ナターシャ
佐藤 麻子 / 増田 一菜
オリガ
川北 裕子
マーシャ
大坂 陽子
イリーナ
槐 奏子(スタジオ生)
クルィギン
八巻 圭一朗 / 渡部 朋彦
ヴェルシーニン
菅沢 晃
トゥーゼンバフ
佐藤 誠司
ソリョーヌイ
後藤 博文 / 目黒 正城
チェブトゥイキン
岡崎 弘司
フェドーチク
中林 豊
ロデー
一柳 潤
フェラポーント
武藤 信弥
アンフィーサ
八木 昭子
登場人物相関図
お客様の声
初めて東京ノーヴイ・レパートリーシアターを鑑賞させていただいたが、とても感動した。
小さな舞台でどのような劇が展開されるのかと考えていたのだが、幕が上がり、劇が始まると、俳優さんたちの演技がとても自然で、観ている自分もその中の一人のような気分になり、映画の画面の中に入っているような不思議な感じになった。
また、帝政ロシア末期の没落した貴族の生活がよく描かれていておもしろかったし、細部までこだわっている軍服の衣装も印象深かった。
(42歳 会社員 伊藤 敬文様)
私はこの東京ノーヴィ・レパートリーシアターの芝居をこの3年間観つづけてきた。観客席26の小さな劇場で、すぐ目の前で人生の劇が演じられる。同じ演目を何度も体験し、また同じ演目であっても観るたびに受ける感銘が異なるという、レパートリー・システムならではの貴重な体験を味わうことができた。そしてチェーホフの芝居こそこの上演システムのためにあるのではないかと、強く思うようになった。
東京ノーヴィ・レパートリーシアターでも、当然のことながらダブル、あるいはトリプル・キャストである。同じ演目でも上演ごとに出演者が異なる。このことはチェーホフ劇の重層性にふさわしい。俳優によって、芝居の意味そのものが変化する。というよりも、芝居のなかに層を成している意味の現れ方が、演じる人間によって異なる、といった方がより正確かも知れない。
「三人姉妹」では、いままで私のなかで、三女のイリーナの存存が大きかった。背伸びしながら大人になろうとしている少女の健気さ、そこにふりかかる残酷な試練、それでも生きていかなければならない人生というものの哀しさ。イリーナに焦点をあてると、生きるということの意味が、少しは見えてくるような気がする。
ところが4月17日に観た「三人姉妹」では、ニ女マーシャにいたく感情移入させられた。だいたいマーシャは、どこか斜に構えた生き方をしている、気ままな女である。夫がある身ながら、これも妻子のある軍人ヴェルシーニンを愛してしまう。転属によって彼が街を去ろうという日、三人の姉妹は食卓を囲む。三女イリーナはトーゼンバフとの結婚を迷っている。
長女オーリガがイリーナに言う。「トーゼンバフと結婚しなさい。彼はいい人です。結婚に一番大事なものは誠実さです」。その隣の、愛のない結婚生活を強いられているマーシャは、ニ度と戻らないだろう恋人との別れを迎えようとしている。結婚生活の本質は誠実さ? オ一リガの言葉は虚ろに響いているはずである。そして、恋人との別れは真に切ない。去ろうとする彼に抱かれたマーシャの背中はその哀しさを伝えて、涙を誘わずにはいられない。
いっぽう、マーシャの夫クルイギンは、上司の動静に敏感で、生活の些事にうるさい、俗物の中学校教師である。マーシャが愛想をつかすのも無理はないと思わせるに十分なほど平凡だが、彼はマーシャを愛している。彼女の心の動きがわかっていながら、その愛は変わることがない。このクルイギンも、演じる俳優によって、観るものの心を揺さぶる存在となる。人間存在の愚かしさ、滑稽さと、それゆえの愛おしさを体現しているのだ。
マーシャの恋するヴェルシーニンとて、颯爽とした軍人などではない。多少生きることについて哲学めいたことを述べることはあっても、狂言自殺を試みる妻を抱えてうろたえる半端な男に過ぎない。だいたいチェーホフ劇には人生の勝者など登場しない。生きていくことに困難を抱えた、平凡な人間ばかりである。そんな彼ら彼女らに、観る者は自らを投影する。そして溜息をつく、「やれやれ」と。それでも人は生きていかなければならないのだ。
森 淳二様 (ブログより一部抜粋させて頂きました)