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<作品紹介>『古事記~天と地といのちの架け橋~』


古事記 ~天と地といのちの架け橋~

演出 レオニード・アニシモフ

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わたしたちは どこから来て、何をめざすのか?
日本人の心のルーツである物語・古事記。
その太古から口づてに伝承された神話を
いま、
生きた感情で、
現代の<儀式>としてよみがえらせます。

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◆2016.10.1 徳島新聞に、原作者 鎌田東二氏のロシア公演随行記が掲載されました ‼

👇掲載文は、こちらをクリック! 
徳島新聞 掲載記事(全文).pdf

スタッフ

原作:鎌田東二「超訳古事記」 
演出:レオニード・アニシモフ
翻訳:遠坂創三  / 上演台本:東京ノーヴイ・レパートリーシアター
衣装デザイン:時広真吾(リリック) 
音楽:町田育弥 、後藤浩明  /  マイム指導:山本光洋
演出助手:アルチョム・アニシモフ / 芸術監督:レオニード・アニシモフ
主催・制作:東京ノーヴイ・レパートリーシアター

協力

舞踊指導:小島千絵子(鼓童)  /   民謡 歌・太鼓指導:木津茂理
狂言指導:善竹大二郎(大蔵流)  /  田口ランディ(作家)
山崎哲(劇作家・演出家)      /   釋一祐(僧侶)
武井協三(国文学研究資料館名誉教授)  /島根県環境生活部文化国際課
株式会社アーツ・ブレインズ

感想より

◆今回の公演を見て、私は非常に感動し、また勉強になりました。

それは、古事記という神話が、忘れかけているものを思い返させてくれる作品だという事を認識できた事と、私自身、古事記に対する理解を深める事ができた事です。
例えば、私はイザナミ、イザナギ以前の神様を知らなかったですし、またそれ以降の髪も、アマテラスや、ツクヨミ、スサノオなどは知っていても土砂の神や風の神などの存在を始めて知ることができました。私は今まで、そうした八百万の神々についてはっきりした意味を持つ事が出来ずにいたのですが、イザナギとイザナミの子供が生まれてくる場面を見て、八百万の神々の意味を初めて自分で解釈をつけて考えられるようになりました。八百万の神々とは、人々の一つ一つの現象や、物に対する感謝や、感動なのだと、そうゆう風に考える事ができるようになりました。そして、その一つ一つが私たちの命を支えてくれているのだと。

今回の古事記は、人は一人では生きていない。
多くのものに支えられて、生きているんだよ、という、当たり前だけれど、少し忘れかけていた大切なメッセージを私の中に残してくれました。
スサノオのその後が気になるので、続編を期待しています!
是非よろしくお願いします。
20代・女性

◆~田口ランディ氏ブログより~


神の依りし顏

顏が、際立っていた。
今夜、わたしが体験したのは、神の顔の前に座るという神秘。
日本人であるなら、たぶん誰もが了解している「神の面相」というものがある。
恵比寿神や大黒神という、わたしたちにとって馴染み深い神さまたちは、なぜか一様に、独特の笑みを浮かべている。不思議な笑みだ。人間の美意識では量ることのできない、得たいの知れない超越的な笑みだ。時として不気味にも思える笑みだ。

神は笑っている。神の笑みを、わたしは(たぶんわたし以外のたいがいの人も)、酉の市で売られる熊手か、神社に祀られた石像か、あるいは居酒屋に飾られた木彫りの像でしか、体験したことがない。いまどき神を演じる者はいない。お神楽や能は神を舞って見せてくれるが、神の顔は面であり、生身の人間が神を顏に宿すことはしない。

ところが、この舞台において俳優たちに課せられたのは「神を顏に宿す」ことだった。「古事記 天と地といのちの架け橋」は、俳優たちがその顏で神を表現するという、神話世界への斬新な試みであり、しかもそれが成功していたのだから、日本人は神の顔を細胞で記憶しているのだと納得するしかない。

顏が美しかった。微笑むとは、花が咲くことを意味することばでもある。顏が花となって舞台に咲いていた。面白いとは、顏が照らされて白く輝く様である。輝く神の顏は客席を照らし、燦々と祝福していた。見た者はみな顏によって祝われる。祝いとは、石に神が宿り磐(いわ)となること。転じて神の宿りを寿ぐことば。今宵、無数の祝いの顏が、舞台から世界を荘厳していた。

顏の力、そのことを思う。
「顏施(がんせ)」ということばがある。笑みを浮かべることを施しとする仏教のことばだ。顏には神通力があるのだ。顏ということばは「カ(外)・ホ……外へ現れる」という意味であり、顏によって、つまりは、眼と鼻と口の周りを覆う表情筋と呼ばれる筋肉によって、人の心のすべてが外に向かって現れているから、浮かべる表情のひとつで、人を癒し、喜ばすこともできれば、怖がらせ脅えさせもできる。頬も同じに「現れる」の意であるなら、ほほ笑みこそ、裡から外に向かって現れた神の顕現、祝福の開花。そう考えれば、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三神が、イザナギノミコトの顏から生まれ出でたことも、合点がいくではないか。

今宵、劇場に集った観客は無量の「顏施」を受けて幸福に浸ったのだが、この「顏施」は期間限定であるので、もし、なんらかの心痛や、日々の暮らしの疲れに気持ちが沈んでいるならば、神社に参る気持ちでこの舞台に足を運んでみるのもよいかもしれない。
神々の顏によって荘厳される体験はとても希有なものだ。

いま、わたしの好奇心は、客席を離れて、神を現す笑みを浮かべ続ける俳優たちに向かう。
彼らは、公演の間ずっと、過酷なまでに「神の笑み」の表情筋を使い続けるのである。笑みの表情は人間の脳に働きかけ、幸福を感じる脳内物質を誘発することが証明されている。……であるなら、この舞台を通して俳優たちの裡にはどんな変化が起こりうるのか。公演が終了したなら、一人一人に質問をしてみたいと思う。いったい、あなたは、どんなニルヴァーナを体験したのか、と。

◆ 『古事記』一部を上演(シアターΧ国際舞台芸術祭参加2014年6月14日公演での感想)

・―気宇壮大な宇宙創世神話「古事記」を、純和式オペラ・シンフォニー(謡声)で表現_―

・ゆったりとした動きの中に、満ち満ちる「壮麗アルカイックスマイル」その言祝ぎ(ことほぎ=寿ぎ)、「明るさ」と「優しさ」の世界

・この十数年、ロシアの古典的新劇(チェホフ、ゴーリキー、ドストエフスキイ)を中心に、スタニフラフスキイ・リアリズムを基調にしながら、宮沢賢治や近松など、日本の作品にも挑戦しつつけている<東京ノーヴイ・レパートリーシアター>。最近ではブレヒトやシェイクスピアなどをはじめ、広く手掛けているが、その最新作「古事記」の最初のプレビューが本日、両国シアターカイで初日の幕あけ。

・アナウンスも音楽も無い無言のシジマの内に、幕が引き開けられると、居並ぶ白衣の古代装束の面々。
そこに、いかにも「語りの翁」らしき風貌の古老が、ゆったりと登場。昔の絵本の絵のオオクニヌシや浦島太郎 を思い出し、懐かしい気持ちになる。と、奥から語りの声がして、一行ごとに力強い発声と語尾の破裂音が、不思議に古代へと誘っていく・・・声の主も、七福神を思わせる神の装いと風貌で、かの翁と、やがて声を合わせて、謳うように語るように、唱和し始める。
その声の響は、日本古来の楽器、雅楽の篳篥(ひちりき)の音色を思わせるほどに、心地良く魂にまで分け入り、微妙な音程とテンポで古代世界へと誘導する。
心ときめくオープニングに、たちまちに引き込まれていく。そこにあるのは、コトバと音楽。事象と神々の生成・・・これまで、セリフや心情によって「日常」を表現することの多かった<ノーヴイ>の最新版となる、この舞台では、<言葉>は<日常の物>ではなく、もっと重みと 深い意味を持つ<祈り>であり<歴史>のようだ。
そして居並ぶ古代装束の人間たちあるいは神々たちの表情、生きていること生まれてきたこと、めぐり合うこと愛し合うこと・・・そのすべてを見守り、抱擁し、いつくしむような、柔らかなスマイル、その笑顔は、どこかでみた、<アルカイックスマイル>・・・飛鳥や奈良にある仏像たちの微笑みに似ているよう。
その<言葉・仕草・動き>は、神楽舞のような、能狂言のような、大らかでゆったりとして、悠久の時を思わすような重厚さに満ちている。
そして人と人、神と神が出会い、ドラマが始まる、それが言葉になり歌になる。なんと大らかな宇宙的なドラマだろう・・・
かくて三十数名の神々たちが歌い舞いことほぐ中で、ドラマは展開し・ ・・収束する、それはきっと、大昔にあった、そして<今>にもつながる物語だ。だからとても懐かしい。

・アフタートークでは、「古事記」が意外にもロシアで広く読まれ研究されていること、そして当の日本人には案外、思いもよらぬことに、そこには優しさや愛に満ちた救済のメッセージが隠されていることに初めて、改めて、気づかされる。
<ノーヴイ>の作品は、そして演出家アニシモフ師と、その同時通訳をする上世さんの言葉は、宇宙の原理に迫り、現代を救済する天の声に聞こえる。それにより、再び今日見た舞台のメッセージを反復する。
壮大なテーマと表現の広がりを示した、<序章 古事記>、十月の完成が今から楽しみな、今日の初日初演であった。

・いつも素敵な舞台をありが とうございます。・これからの展開、楽しみにしています。またお知らせ下さいませ。